影を歩く音

足音が遅れて聞こえてくるのは、濡れたコンクリートが残響を抱え込むからだ。夜明け前の地下街に響くそのリズムは微妙に揺らぎ、まるで誰かが暗号を打ち込んでいるようだった。 走査士の葵はイヤーピース越しにノイズを補正しながら、そのテンポを記録する。

「遅れ 0.8 秒。変調が入った。多分、階段を降りてる」

――了解。追跡を継続して。

相棒の通信は囁き声に近く、地下街の薄暗さと混ざり合って実体を持たない。葵はライトを点けずに進んだ。濡れた床に散らばるガラス片が靴底に触れるたび、エコーが細く連なっていく。

I. 消えた地下定時連絡

ここで聞き逃してはならないのは、正確な拍。都市監視網が拾ったのは「足音で送られた通信」だった。旧貨物線の改札裏に眠る通信室へ、誰かが歩き方を変えて信号を送った――それが今回の依頼内容である。

地下街の奥、閉鎖された映画館の前に差しかかる。スクリーンの代わりに防火シャッターが降りたまま、わずかな隙間から白い靄が流れている。葵はイヤーピースを軽く叩き、波形を拡大した。

「昔はここで終夜上映してたんだって。明け方まで走って、それから潜ってさ。暗闇は落ち着くのにね」

数年前、まだ走査士ではなくナイトランナーだった頃、友人の玲奈が笑っていた記憶が蘇る。彼女はいつも夜と仲が良かった。

結界のような思い出を振り切り、葵はシャッター脇の非常扉を押し開ける。冷たい空気が頬を撫で、階段へ続く灯りのない廊下が姿を現す。足音は再び規則性を取り戻し、四拍子ごとに低いクリック音が混ざり始めた。

II. 足音が描く鍵盤

地下三階。貨物駅時代の通信室は厚い扉に守られ、外からは信号を遮断する設計になっている。だが足音暗号は壁を伝って内部へ届く。葵は扉に手を当てた。乾いた鉄の冷たさが掌を凍らせる。

足音は今やメロディになっていた。キーコード〈E-4-7〉。旧警備網で使われていた通報シグナルだ。しかし、このコードには続きがない。誰かが意図的に最後のフレーズを削り、別の文を重ねている。

葵は靴底のセンサーを切り替え、扉の前で静かに一歩踏み出す。あえて音を響かせ、残響が混ざり合う瞬間を狙う。イヤーピースに走査波形が流れ込み、複数の足音が干渉する。

「――『再会セヨ』。誰に向けたメッセージだ?」

その瞬間、扉の内側で何かが倒れる音がした。葵は反射的に身を引く。わずかな隙間から漏れ出す光線が揺れ、誰かが内側から扉に手をかけた気配が伝わってくる。

III. 暗号の主

扉が静かに開き、薄闇の中に人影が立った。黒いコートの裾から滴る水滴が床で弾け、ハイヒールの輪郭を描く。葵は息を呑んだ。足音の主は、数年前に消えたはずの玲奈だった。

「久しぶりだね、葵。あなたの足音、相変わらず拍が正確」

玲奈は笑った。だがその目は端末の光を反射し、どこか遠くを見るように霞んでいる。手首には旧型の暗号化デバイスが巻かれ、緑色のインジケーターが脈打つたび、足音のリズムが通信室に響いた。

「あなたが消えたので、都市の回路に穴が開いた。埋め合わせが必要だったの」

玲奈はそう告げて踵を返し、通信室の奥へ誘う。壁一面に貼られた古い路線図、点滅する分析端末、そして床一面に描かれたタイル状のパターン――それはまるで巨大な鍵盤のようだった。

「踏んで。あなたの足音で、続きを完成させて」

葵は迷った。再会の歓喜よりも先に、暗号の余白を埋めるべき数字が頭を占める。足音と足音が重なる瞬間、都市のどこかで眠っていたシステムが目を覚ますだろう。彼女は一歩踏み出す。

足音が重なり、通信室全体が共鳴する。床のタイルが淡く光り、空中にホログラムが浮かび上がった。そこには、都市全域の物流網と、失踪者リストが重ねられている。

「都市は、まだ隠している。私たちの足音が、全部をあぶり出す」

玲奈が静かに言った。その声には決意と、どこか祈りにも似た震えが混ざっている。葵は握り締めた拳を解き、自らの足音が描いた波形を見つめた。

第三波までの解析結果は、まだ途中だ。けれど数字の端が指し示す先は明確だった。湾岸の旧通信センター。そこに、二人が追ってきた「暗号の主」がいる。

葵は頷き、玲奈と目を合わせる。

「続きを、確かめに行こう」

足音が描く拍が変わる。二人のステップが重なり、通信室の光が一段と強くなった。扉が閉まり、暗号の続きが静かに都市へ流れ出していく――。